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NO.0028

連載「民藝」をめぐる4人の陶芸家たち
~バーナード・リーチ②

公開日 2020.1.20


以前の記事はこちら↓
連載「民藝」をめぐる4人の陶芸家たち~バーナード・リーチ①
連載1:バーナード・リーチ①日本渡航以前


◇       ◇



連載2:バーナード・リーチ②日本時代―陶芸と仲間たちとの出会い

1909年(明治42)4月、横浜港に到着したリーチは、高村光太郎が書いた紹介状を手に光太郎の父である彫刻家で東京美術学校教授・高村光雲を訪ねます。東京美術学校校長・正木直彦、美術評論家で東京美術学校教授・岩村透らとも知り合い、日本の美術関係者たちとの人脈を築きます。また日本で生活を送るうちに岸田劉生、山脇信徳といった画家たち、後に「民藝運動」を共にする富本憲吉、濱田庄司、河井寛次郎ら陶芸家たちとも次第に出会っていきます。美術家たちと交友を結ぶ一方で、上野桜木町の自宅で開いたエッチング教室に通ってきた志賀直哉、武者小路実篤、後に「民藝運動」を主導する柳宗悦ら「白樺」同人の若き文学者たちとの交遊も始まります。

リーチは当センターに所縁のある洋画家・斎藤与里とも接触しています。1911年(明治44)「白樺」が主宰する洋画展覧会での懇親茶話会に、後に大阪美術学校教授となる斎藤も名を連ねており、そこで知り合った可能性があります。翌1912年(大正元)には斎藤が発起人の一人となった美術団体「ヒュウザン会」にリーチは参加しています。同会は2年間の活動で解散しますが、高村光太郎、岸田劉生、萬鉄五郎らが参加した「ヒュウザン会」の展覧会は日本における反自然主義的な絵画の出発点として歴史的な意義を持っています。
東京美術学校関係者や画家たち、「民藝運動」を共にする陶芸家たち、「白樺」の文学者たち、「ヒュウザン会」への参加など日本の芸術家たちとの交流は、リーチの日本文化の理解を深め、自身の芸術を広く養っていったものと考えられます。

当時の日本は物価が安く生活は楽だったらしく、リーチはエッチング教室以外にも、父の遺産やイギリスの絵具の販売、英語を教えることなどで生計を立てていました。イギリスから許嫁を呼び寄せ、かつて祖父が英語教師をしていた同志社大学のチャペルで結婚式を挙げます。しかし、日本での生活が順風満帆だったわけではありません。食べ物や生活習慣、衛生観念の違い、言語など異文化との接触によるストレスを経験し、半年間で日本が嫌いになったとリーチは当時の心境を述べています。帰国をとどまったのは、伝統的な日本美術の研究という目的があったからです。
リーチの研究に大きな進展を見せるようになったきっかけが陶芸との出会いでした。来日して2年後の1911年2月、リーチは楽焼を経験します。前年にイギリス人の友人の紹介で知り合った富本憲吉とともに東京の若手芸術家たちの集まるあるパーティに招かれたリーチは、その場で素焼きの陶器に絵付けをするよう促されます。初めて絵付けをした皿は外に置かれていた小さな窯で焼かれた後、地面のタイルの上で冷やされました。画家を目指していたリーチは自分の絵が皿に焼き付けられたことに魅了されます。その時の状況をリーチは次のように回想記に書いています。

「陶器の色はしだいに変化し、図案が現れてきた。そして釉薬の中にひび模様ができる時、それぞれがピーンという音を立てた。驚いたことに、陶器はこんな扱いにもびくともしなかった。(中略)それからさらに十五分かそこらの後、熱くて持てないという程でもない私の皿が、布の切れ端に包まれて返ってきた。このおもしろさに心を奪われた私は、即座にこの工芸を自分でも始めてみようという欲望に取りつかれた。」(『東と西を超えて 自伝的回想』、40-41頁)

リーチは続けて、その頃上野で開かれていた勧業博覧会でも楽焼の絵付けを体験します。この二回の楽焼の経験後、リーチは富本と共に六代目尾形乾山に弟子入りしました。当初は断られたものの二、三日通って頼み込み、ようやく入門を許されます。毎日乾山の工房に通い、陶芸のいろはを学びます。約一年後には自宅に轆轤(ろくろ)と窯を構え、二年後には免許皆伝となるほどの上達を見せ、リーチは富本と共に七代目乾山を称することを師から許されます。
日本で陶芸を学んだリーチは次のようなエピソードを述べています。ある日、リーチは師・乾山に窯の中で起こっている酸化炎と還元炎、釉薬などについて科学的な説明を求めたところ、自分の教える通りに試すよう言われ、乾山自身も師からそうして学んだとの返事が返ってきました。また、乾山のもとで二年間修行した後、真葛焼の宮川香山に上絵付を学びます。その時、宮川はリーチに幾つかの技術を教えなかったため、独力で試行錯誤を繰り返したといいます。リーチは陶芸修行を通じて、体系的な理論ではなく、師から弟子へと経験知を伝える伝統的な学び方や、師の技を盗むという過程を経ながら、日本文化の理解を深めていったのではないかと考えられます。
七代目乾山を称するほど陶芸の技術を習得したリーチでしたが、この時点ではまだ陶芸を一生の仕事にするとは決めていませんでした。日本文化を研究するなかで、中国や朝鮮半島の文化にも目を向けるようになります。

リーチの芸術的なテーマは東洋と西洋の「出会い」でした。リーチは孔子を中心に中国文明について深く理解したいと思うようになります。ヨーロッパに倣う日本の西洋化による進歩によって、伝統的な文化や社会習慣が失われていくのを目の当たりにし、西洋化される以前の東洋を中国に見出したのでした。リーチは、東洋と西洋の間で揺れ動く自分の思想を明確にするために芸術、教育、哲学における指導者を求めていました。そして、1914年から1916年にかけて三度、北京に渡り、ウェストハーヴという学者に師事します。三度目の渡航時には日本で送別会が行われ、家族と共に移住しました。この時点では日本に戻るつもりはなかったようです。しかし、ウェストハーヴに疑問を抱いた柳宗悦は、芸術家として仕事に戻るようリーチに働きかけます。リーチは柳の呼びかけに応じ、日本に戻ることを決意します。
中国では一度も陶芸作品を創作したことはなかったリーチでしたが、青磁と白磁といった磁器を研究したことと日本以外の東洋を知ったことは、芸術家として成長していく上で大きな糧となったと思われます。

《主要参考文献》
バーナード・リーチ『東と西を超えて 自伝的回想』
福田陸太郎訳,日本経済新聞社,1982年
鈴木禎宏『バーナード・リーチの生涯と芸術――「東と西の結婚」のヴィジョン』
ミネルヴァ書房、2006年

【投稿:スタッフM.K】



バーナード・リーチ「鉄釉砂糖壺」1953年制作 枚方市所蔵
※枚方市生涯学習課掲載許可済み