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NO.0033

連載「民藝」をめぐる4人の陶芸家たち

~濱田庄司①

公開日 2020.6.19


連載5:濱田庄司① 京都で道を見つける

濱田庄司(1894-1978)は「私の陶器の仕事は、京都で道を見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、 益子(ましこ で育った。」(『無盡蔵』99頁)と述べています。この濱田の言葉に沿って彼の生涯を辿ってみましょう。

濱田は1894年(明治27)12月、神奈川県 橘樹郡(たちばなぐん) 高津村(現在の川崎市)に生まれます。小さい頃から絵を描くことが一番好きな少年でした。学校が休みの日には写生に出かけたり、カット絵を雑誌に投稿して入賞したこともありました。画家になりたいと思っていましたが、中学三年生の時に「絵描きになるとしたら本当のいい絵描きにならなければ意味がない。他人の厚意をうけながらいい加減の絵を描いているのはやりきれない。工芸だったら何かの意味で使って貰って役に立つから、少しは気がすむだろう」と考え、工芸の道に進むことを選んだとバーナード・リーチとの対談で述べています。工芸の中でも陶芸を選んだのは、「釉の不思議さ」に惹かれたためのようです(対談 バーナード・リーチ、濱田庄司「五十年の思い出」『無盡蔵』324頁)。その頃、後に洋画家となる木村荘八に教えられた画家ルノワールの「もしフランスで絵描きになりたい人が半分工芸をやってくれれば絵描きも仲間が減って助かるし、工芸も才能ある人が出て、非常に助かる」(同、325頁)という言葉を知って陶芸家になることに意を強くしたといいます。中学生の時にすでに「使って貰って役に立つ」という後の「用」を重視する「民藝」に通じる考えを抱いていたことは注目されます。そして、中学の終わり頃には、銀座の画廊でリーチや富本憲吉の楽焼を見て魅了されます。

進学にあたっては16歳の時、尊敬する陶芸家・ 板谷波山(いたやはざん) (1872-1963)が教えている東京高等工業学校窯業科への入学を決心します。口頭試問で将来の目標を問われた濱田は「板谷波山のようになりたい」と答えたといいます。1913年(大正2)に同校に入学すると、すぐに波山に弟子入りを願いでます。しかし波山は、弟子はとらないが、友だちとしてなら付き合うから日曜ごとに遊びに来るよう応じたといいます。濱田は日曜日になると、 田端(たばた) にある波山の家か、本郷の楽焼の店で陶芸作品を作っていたといいます。波山の家では、黒い線や、緑と茶の山水の絵付けがしてある土瓶を目にします。これが濱田が小学生の時、学校でお茶を注いでいた土瓶や習字の水入れと同じ 益子(ましこ) 焼の山水土瓶でした。この時の益子焼との出会いが後年益子で作陶生活に入る動機のひとつとなりました。

在学中は陶芸の傍ら、黒田清輝の白馬研究所でデッサンの修練も積みます。学校では二年先輩である河井寛次郎と知り合い、生涯にわたる交友が始まりました。卒業前年の夏休みには美濃・瀬戸・信楽・九谷・京都など各地の窯場をまわり、京都市立陶磁器試験所に勤めていた河井を訪ねます。この時に卒業後は河井と同僚になることを決意しました。

1916年(大正5)、京都の試験所に就職した濱田は河井とともに本格的に陶芸の技術を修得し始めます。試験所での仕事は、素地・釉薬・絵具・窯の構造・焼成などの研究・実験で、特に釉薬の試験をするのが主でした。特色ある釉の処方を見つけること、戦争のために入手が困難になった中国の天然 呉須(ごす) の代替となる合成呉須を作るというものでした。とりわけ、濱田は顔料や防腐剤の原料となる 辰砂(しんしゃ) に魅了されていた河井につられて一年ほど辰砂の研究に没頭します。
研究・実験は化学式を用いて秤や測量計などを使用する近代的な方法です。京都の試験所で濱田も河井もそうした科学的な知識を学び、経験を積みました。濱田は青磁五千、辰砂三千、天目二千合わせて1万種にも及ぶ釉薬の実験をくりかえし、大抵の釉は調合を言い当てられるようになったといいます。このことから釉薬の知識において並みの陶芸家を凌いでいることがうかがえます。

陶芸をするには 轆轤(ろくろ) を挽くことが不可欠ですが、濱田は試験所の付属伝習所轆轤科で学んでいた、後年陶芸家となる近藤悠三(本名:雄三)にその手ほどきを受けます。後に「形の濱田」と呼ばれる濱田の成形の基礎は、この時の修練で磨かれたものと思われます。また、幼少の頃から好きだった絵や書の勉強も続けましたが、焼物には絵よりも字の方が大事と考えるようになったといいます。絵よりも書字への傾向は、後に濱田の代名詞となる「 黍文(きびもん) 」や、一直線に釉薬を流す「 流掛ながしがけ 」、意図的に曲線となるように釉薬を流す「 流描(ながしがき) 」など、絵よりも線の文様を施す濱田の作風に結びつきます。

週末に上京しては、若い美術家たちの集まりであるフューザン会や草土社の展覧会、リーチや富本の個展を見て回り、京都や奈良も巡り歩きます。奈良では 安堵(あんど) 町の富本の陶房を訪ね、交友が始まります。リーチとは1918年(大正7)年の神田・ 流逸荘(りゅういつそう) のリーチ展で知り合い、翌年には安孫子の 柳宗悦(やなぎむねよし) 邸を訪れ、「白樺」の同人たちとも知遇を得ました。リーチが麻布の黒田清輝邸に築いた窯で手伝ったりもしています。後年その地で学ぶことになる沖縄や益子、そして朝鮮などへも河井と共に旅行しました。それぞれの場所での見聞は強く感銘を受けるものだったようです。
また当時、陶芸の名品を鑑賞する機会は決して多くありませんでした。濱田は洋書の図録や、ホブソン著『中国陶磁史』、メトロポリタン美術館の図録などを見て、一つ一つ模作して研究したといいます。濱田の丸善への洋書代の借金は月給を上回るほどでした。河井も同じものを試作し、二人で持ち寄って自作を見比べ合ったようです。河井と勉強し合ったことについて濱田は、第三者による批評では「油断していると人に作って貰った映像をそのまま自身でも信ずるようになり、まだほかにも特色のあるはずなのを出しそこなう危険があります。私は河井とお互いに鏡になり合って、お陰で間違い少なく勉強出来たことを仕合わせに思います。」(同、224頁)と述べています。

濱田は京都時代に志を共にする仲間たちと出会い、議論を交わして陶芸を見る目を肥やし、技術的な基礎を固めていきました。そして、帰国するリーチにイギリスでの作陶生活を勧められます。濱田は約4年勤務した試験所を退職し、25歳で渡英します。


《主要参考文献》
濱田庄司『無盡蔵』朝日新聞社、1974年
濱田庄司『浜田庄司―窯にまかせて』株式会社日本図書センター、1997年
水尾比呂志「陶芸家濱田庄司の文藻」
(濱田庄司『無盡蔵』講談社文芸文庫、2000年所収)
水尾比呂志『現代の陶匠』芸艸堂, 1979年
『炎芸術』No.104、2010冬「特集 濱田庄司 美のモダニスト」、阿部出版

【投稿:スタッフM.K】