橋村物語⑧

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橋村物語⑧


大阪美術学校の中心的指導者、橋村、福岡青嵐、斎藤与里の三人は御殿山時代にそれぞれの立場で美術家として仕事の幅を広げていきました。

橋村は教育者として指導にあたる一方で、一人の画家として己の理想をめざして創作に励み、活躍の幅を広げていきます。中でも新聞の連載小説の挿絵の仕事が特筆されます。朝日新聞掲載の長谷川伸「紅蝙蝠」、吉川英治「宮本武蔵」「三国志」、中里介山「大菩薩峠」などを描きました。また、橋村は親友・直木三十五が亡くなった翌年の1935年(昭和10)に改造社から刊行された全集の装幀も手掛けています。

橋村が創立に関わった日本南画院が昭和14年に解散したため、それに代わる公募展として橋村主宰による乾坤社(けんこんしゃ)が発足しました。これは学生たちにとって戦時下では学校主催の大美展と公募展の両方に出品することは困難との判断から立ち上げたもので、乾坤社への応募に絞らせたのです。

橋村は南画家として自分が目ざすところの新しい南画を、日本の風土から生まれる“新南画”と称しました。南画は池大雅、与謝蕪村以来の文人画の伝統にあって、技巧や写生よりも精神性を重視する中国南宗画の影響を受け、心で感じた詩的な世界の表現を特徴としますが、同僚の与里との意見交換などから西洋の写実的な表現を取り入れていったと考えられています。1928年(昭和3)帝展で特選となった「暮色蒼々」は“新南画”の域を示した作品として代表作に数えられています。1937年(昭和12)には小松均、菅楯彦らと共に東洋芸術の確認と進展とを期する「墨人会倶楽部」を結成し、自らの理想とする南画の境地に向けてさらに努力を重ねました。

青嵐は、従来の「床の間芸術」から一線を隠した「会場芸術」としての日本画を主張する川端龍子の青龍社に参加し、青龍展で発表を続けました。また橋村と同様に、挿絵の仕事で相馬御風「良寛」、吉川英治「太閤記」を手がけています。与里は島村抱月の芸術座で舞台装置を担ったり、文芸誌の挿絵や装丁、美術評論などを手掛けました。   

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