橋村物語⑦

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橋村物語⑦


橋村は教育方針として、日本画と洋画の学生たちが互いの制作室を出入りするのを黙認していたようです。南画家・清水要樹氏は「往時の美術学校は自由に勉強できる開放された学校で自己の能力を十分に発揮出来る授業で、各地に写生旅行をして授業の単位とすることが出来た。」 と回想していますが、自由な校風は芸術家として人生を歩む上で学生たちにプラスに働いたと思われます。洋画部を卒業した園部晋は在学中に日本南画院院友に推薦されるなど日本画も手がけました。園部は洋画部と日本画部との垣根を取り払った自由な交流の中から生まれた特異な画家に挙げられるでしょう。

橋村は「十人の弟子が来れば十人からいろいろと教えられ、弟子を沢山養うことが研究の基となる」 という考えの持ち主でした。日本画・洋画にこだわらず弟子の養成に積極的だったようです。戦後韓国美術界で活躍した洋画部所属の韓国人留学生ペク・ヨンスは橋村宅で起居しながら美術創作を間近で学びました。

学生たちは、卒業生も含め、帝展(昭和11年から再興文展)での入選を目ざしました。1930年(昭和5)には日本画12名、洋画8名が入選。南画院展には30名を超える入選者がいた年もあったようです。洋画部の学生は槐樹社及び槐樹社解散後に結成した東光会という斎藤与里が立ち上げた二つの団体の公募展入選を目ざしました。また、学校行事として、大阪美術学校展(大美展)を開催しています。大正14年の第1回展は心斎橋の高島屋旧館、第2回展から第10回展まで中之島の朝日会館、第11-12回展を天王寺公園の大阪市立美術館で行っています。御殿山校舎からの作品輸送は船に積み込み淀川を下って運んだということです。

卒業生たちは枚方美術協会など13の美術団体を立ち上げ、大阪画壇において大きな役割を担いました。中でも枚方美術協会は枚方遊園絵画展覧館で作品展示を行い、枚方の美術振興に貢献しています。園部晋(洋画部)と直原玉青(日本画部)など卒業生の中から大阪美術学校助教授として教鞭をとる者もいました 。

しかし、1937年(昭和12)日中戦争が始まると、学校生活も戦争の暗い色に染められていきます。同年10月14日付朝日新聞に「文展日本画入選者発表日の翌十三日、北河内郡殿山町矢野橋村画伯邸では門下の坂口竜太郎、書生の大野博君が新入選」という花々しい記事がある一方で、橋村は門下生・井出良弘が南京附近にて戦死したと、従軍画家として派遣された弟子の直原玉青に宛てた手紙に書いています。   

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